昭和43年9月18日 朝の御理解


 ただ今より、昭和43年9月18日朝の御理解を頂きます。御理解第100節「日出度日出度の若松様よ。枝も栄える。葉も繁るというではないか。金光大神は子孫繁盛、家繁盛の道を教えるのじゃ」誰しもが願わんものはない。いよいよ家繁盛いよいよ子孫繁盛をしていく道しかない。ここを願ごうての信心と言うよりもここを頂くための信心、ここを願うてだけのしんじんではいかん。ここの所を頂くための信心をしなきゃあなんのですよ。金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教えておる。道を習わなければいけん。それでお互いそういう道を果たしてこうじておるであろうか、と言うことをまず自問自答してみなればいけません。私は果たして金光大神の教えてくださる事を子孫繁盛の道とおっしゃるが道を私共は聞いてその道を歩いておるであろうか。毎日合楽通いをしよりますと言うことだけではないですよね。子孫繁盛の道と言うのはなるほどそういう道を教えて頂くからそれがありがたいから、合楽通いをしておるというならうなづけますね。そういう子孫繁盛の道というのは、どう言うような道であるか、ここんところを皆さん聞いて頂きたいと思うのです。皆さんご承知でしょうが、武者小路と言う人の言葉に「この道より我を生かす道なし、この道を歩く」という有名な言葉がありますね。「この道より我を生かす道なし この道を歩く」とこれはたとえば、商売なら、商売をいたしております。百姓なら、百姓いたしております人がです。自分が生きる為には、この百姓より外は道はないのだと。自分はもう商売より外しきらんのだから、自分は生きるためにこの商売をして行かねばならんから、この商売をやめられない。この商売の道を歩くというようなもんじゃあないと思うんです。自分はもう何にもしきらん。もう百姓だけしか仕切らん。だから、この百姓道という百姓の道を私は歩く。そういうもんじゃあないんですよね。果たしてその人が百姓と言ういわば、道によって、その人が十分にいかされているかどうかと勤めなら勤め、商売なら商売をやっておるが、その商売がですね。私を生かしておるかどうか、私も過去においては、もうしょうばいより外に道はないと私の道はないと思いよった。もう根からの商売人ですから、もう私から商売を取ったら、もう私はなくなると言うように思っておった。ところがその商売は私を生かしてはくれなかった。充分には生かしてくれなかった。そしてなら、現在こうやってお取り次ぎの御用をさせて頂いて見て初めて思う。はあ、私は信心が一番適当だ。適当しとった。それはしよった。信心はしよった。けれども、私は金光様の先生と言うのは一番私にはふさわしかった。私をいわば、本当に生かしてくれた。それは金光様の先生をしておるから、みんながそうかと言えば、そうじゃないのですよ。あっちの先生は何か外の事を詞取ったほうがよかったかもしれん。たとえば、一番身近な例に星野教会の池辺という先生がおられました。それは、もうよう話が出たんですけれども、あの山の中でですね。それこそ、千人からの信者が集まった。一時はもう山また山の町ですよね。星野と言うところはそれにその当時1000人からの信者がおったというんですから。大変な御非礼を頂かれた。二代目の池辺先生になってから、ある事情がかさなってもう御非礼が終わるようになった。そして結局教会をあけられる様な事になった。この人は私共善導寺で中学校は善導寺教会から行かれましたが、非常に書き方ですね。いわゆる書道、もうそれが大変好きなほうであった。また、中学時代、それは見事な字を書きよりなさったが、最近では九州きっての書き手です。3~4年前書きますと一枚かかれますと7万位だったですね。今は17万*だった。私はそんなこっちゃだろうと思いよったらね、この間高橋さんと久留米に参りましたときに丁度そういう本があったんですね。それに絵描きさんや書家の字がいくらと評価してある本がある。それを見たら、やっぱり池辺省三と言う人の家は17万*という評価がされるぐらいすばらしい。それで私はこの道より我を生かす道なしという池辺先生にとっては、やはり金光様の先生よりもそれの方が良かったと言うことになるですね。ですからですね。お互いのその神様に与えられた御用と言うものがですね。あなたを本当に生かそうとしなければ、だめですね。それぞれが神様の御用を頂いておると神様の御用をさせて頂いておる商売をさせてもらう。百姓をさせてもらう。さまざまな御用をさせて頂いておるがです。その御用がね、我を生かす道でなからないかん。果たして生かしておるかここんところをね。この道より我を生かす道なしという。この道より外に食べて行く道はないのだと自分が生きて行くためにはこの百称するほかにないのだと言うような寂しいものではない。もうこの人には百姓が一番適しておる。自分には百姓が一番出来ておる。その百姓と言うその仕事が自分生かしておる。なるほど、あちらの稲はよう出来よる。なるほど、あちらの野菜は誰よりも立派に出来ると言うぐらいに百姓のいうなら、名人にならなかあいけん。そこで初めてその人は百姓によって生かされたと言うことになるのです。はあ、あちらは商売の神様の様な人だ。商売によって一世を風靡しておる商売によって成功された時、初めて商売によってその人は生かされたんです。生活の為にこんな商売をしておってと行ったようなことではね。なら、金光様の先生が生活の為にここへ座っておると行ったような事でその人が生かされておるといったことではない。なるほど、生活はそれで成り立っていくけれども、生かされたのではない。そしてそこでですね。私は一つ分からして頂かなければいけないことがある。例えば、これはそれぞれの道と言うもの、それぞれの商売なら商売、百姓なら百姓という道が確かにその人を生かした。それをもってその人が成功した。その人はその仕事によって生かされた。その人の持っている充分の知恵、力と言うものをそれに打ち出していったからですね。だから、その人が幸せになるとは言えないのですよ。ここんところを私は武者小路さっでもここんところは分かっておられないだろうと私は思うんです。それはすばらしい言葉だけれども、金光大神の教えてくださる道というものはね。いわゆる目出度、目出度と言うところがすばらしいのですよ。何時も何時も赤飯炊いて祝うようなそういう目出度いことになっていくという繁盛なんです。例えば、その人を生かした繁盛した成功したけれども、繁盛したことが成功した人を不幸せにしたことがあるのですよ。その人一家を*壇の苦しみに追い込んで閉まっているような場合があるんですよ。その道によって生かされた為にその人は一生かけてもその道を歩いた。そしてこのように成功した。けれども、そのことによって不幸せになっておることがたくさんあることですよ。金光様の御信心は金光様の教えてくれる道というものはね、目出度、目出度の若松様よと言うようにね、枝も栄え、葉も繁っていくと言うだけじゃあ無くて目出度いということ、いよいよもってありがたい、もったいないという道が開けてくるということが一番すばらしいことなんですよ。そこでです。子孫繁盛の道、しかもそれが目出度、目出と言うような子孫繁盛の道とはなら、どういうような道か。金光大神はそのことばかり教えておられるが、その教えを私共はどう頂いておるか。ところどころ頂いておるとではつまらんですよ。ところどころ頂いてたんでは、いかん。というてなら、この百十何か条というお教えがですよ。全部自分たちが完璧に出来るとは思われない。けれども、金光大神はたくさんのお教えをしておられるがいよいよそれを煎じ詰めて。煎じ詰めてどういうことかと答えを出したら、その答えの所が私共の生活の上に現れているかどうかということ。みんながおかげを受けたい、おかげを受けたい。しかもそれが本当に子孫繁盛のおかげにつながるようなおかげを頂きたいと思うでしょう。思えば、思うほどです。神様はね、頂いたおかげがかえって怪我のもとになるようなおかげは神様はくださらんのですよ。さあ、しっかり一つの地形しきせなならん。地形は半ばで家を建てる人があるでしょうか。ないでしょうが、地形付もせずに家を建てる人がなおさら、ないようになかばで家を建てる人はないです。信心の基礎と言うものが信心の基礎と言うものがしっかり出来なければ、3年5年ではまだ迷い易い10年と信心が続いたら、吾と我心をまつれと言うように吾と我心をまつれるようなですね。信心の基礎と言うものが出来なければ、まず、これ50年信心しとったってですよ。吾と我心がまつれる様な稽古をしておらなければ、これはいっちょしとらんと同じことですよ。50年お参りしてただおかげを頂いただけだったら、10年間みっちり本当に吾と我心をまつれるような信心の基礎と言うものがまず、出来なければならない。基礎なしに家を建てる者がないように基礎半ばにしておかげを家を建てる人がないようにその基礎をするところがね、実をいうたら、ありがたいのであり、また、楽しいのである。それまで、**するのではない。ただ現*というだけのものじゃあない。その基礎が出来ていきよるという事が自分にわかる。いわゆる力が出来てきよることが自分にも分かる。それがありがたい。なるほどそれならば、やはりいわゆる10年後には吾と我心をまつれとおっしゃるようなおかげを頂けるだろう。そこから、うちたてられるところのおかげ、そういうおかげでなからねば目出度、目出度といような事にはなってこない。頂いたおかげでなからなければ、ならん。頂いたおかげのために痛い思いをしなければならないといったようなことでは目出度、目出度ということにはならない。この道より吾を生かす道なし。金光様の御信心はね、この道より吾を生かす道なしと言うのではなくてね。この道はね、一切を生かす道なんです。吾だけじゃあない金光大神はね、そういう事を教えられているんですよ。金光大神はね、人だけじゃありません。一切の事柄、一切の物、一切の生かす道を教えておられます。どうでしょうか。皆さん一切が信心の稽古させて頂きながら、生きて行きよるでしょうか。過去において本当にあげなことになかったならばと、たとえば、公開が残るようなことはないでしょうか。あんな事が無かったら、もうちっとましなと言うて。過去の事、悔やむような事はないでしょうが、金光大神はね、一切を生かす道、それがね間違いない狂いのない基礎になるのですよ。それを生かして行ければ、たとえば、人から、*かしめを受ける様な事があるかもしれません。人から、損を受ける事があるかもしれません。人から笑われる様なことがあるかもしれません。さまざまな失敗な事がたくさんございます。その***てがね。笑われたおかげで失敗したおかげでたたかれたおかげでと言うようにですね。一切がおかげになるということなんです。金光大神はそういう道を教えておられる。子孫繁盛の道をおしえるのじゃとおっしゃる。子孫繁盛のみちとはね、一切を生かす道なんです。そこで例えば、話を聞けば、それだけなんだけれども、悔やまれにゃあおられない。不足を言わねば、おられない。それこそ、あれにいっぺん仕返しをしなければおさまらない、と言うのがじじつではないでしょうか。現実においては、あげなこと言われたことは言うて返さなければ、あげんされたことはしてかえさなければ、これが治まらない。だから、そういうことどもしよったり、思いよったりしたことでは何時まで経っても子孫繁盛の道は聞けんと思ったら、まず、間違いないです。そういわれたおかげと言うようになって行かなければ、そうされたおかげとなからなければ、金光大神はそこを教えておられるんですよ。それをここでは一切神愛とこう言うわけなんです。一切が神愛なんだ。一切を神愛として頂いておる。だから、それだけだから、みやすいようだけれどもです。実際それがなかなか出来んところに常日頃の信心修行が大事なんです。心に分かっておってもそれがすきっと心に頂けんところにです。修行が必要なんです。神は声もなし形も見えず、疑えば、限りなし。恐るべし疑いをされよ。たとえば、私が申しましたことをですね。皆さんが信ずると言うことなんです。確かにそうだと思います。まず、信じなければ、いけません。神様は疑えば限りはないのだけれども、声もなからなければ、形もないのだから、けれども、けれども私共はどこを信ずるかと言うと、まず教祖さまを信じなければいけない。金光大神を信じなければならない。神を信ずると教えを信ずることを私は最近言うております。教えを信ずることなんです。そうして行くうちにですね。どういうことが信じられるかと言うとですね。天地の働きがです。私共じゃあないです。私の為にです。天地の働きがあっておるということが信じられる様になるのです。天地は私共じゃあないです。私一人の為に働いてござると言うことが分かつ。それが体験される様になる。そこに金光大神のお取り次ぎの道と言うのがどのように素晴らしい偉大であるかと言うことがだんだん分かってくるようになります。天地が私一人のために働いてくださってあると言う実感がですね。これが湧いて来るようにおかげが受けられる様になる金光大神の信心、金光大神のいわゆる事を信じさせて頂く。いわゆる教えを信じさせて頂いてその教えをこうじて行く中にです。天地が吾一人の為にあると言うように信じれるようになります。それが信じられるからこそです。天地の働きが信じられるからこそ、一切が生きてくるのですよ。すべての事が生きてくる。そこんところをいわば、具体的にたくさんの教えは説いておられるのです。それを頂いて行くためにですからね。本当に教しえを深く深くわからにゃあいけんです。どういう点から見ても考えてもなるほどと合点が行くようにいわゆる蔵教に入る。教えの蔵に入ると言うこと。教えを深く広くいよいよ分からしてもらう。そして、なるほどといわば、頭の上にも体の上にも心の上にもそれが実感としてそれが信じられる。金光大神の教えと言うのは金光大神はいわゆる子孫繁盛家繁盛の道を教えてくださる。みんなが願って止まないところである。そういう家繁盛やら、子孫繁盛やらといういわゆる御利益と言ったようなものを願う信心はそれは本当の信心じゃないと言ったような事をいうけれども、金光大神の信心はただおかげを頂くためにおかげを頂くために金光大神がお取り次ぎしてくださるのじゃあなくて、そういう道を分からしてもらう。そういう子孫繁盛家繁盛のおかげを頂ける道を教えて頂くその道がどこにつながるか。天地につながる。如何に低級で無いことがわかる。その道を体得するから目出度い、目出度いと言ったようなおかげが出けて来るようになるんです。ここで一番初めに申しますようにですね。子孫繁盛家繁盛を教えるのじゃと。だから、家繁盛子孫繁盛のおかげを頂く為に信心することになるのです。おかげ頂くために信心するのじゃあなくて、おかげを頂く道を教えて頂くという事になるのです。ですから、その道をこうじなかったら、もしそれでおかげを頂いて行くなら、とてもおかげを頂くというだけのことであったら、ならばそれは低級と言われてもしかたがない。子孫繁盛の道はどこにつながっておるかというと、いわゆる天地が私一人のためにあると言うことが分かってくると言うことは天地につながっておるのです。天地にいわゆる金光大神のお教えこそ、天地の大道なのです。「この道より吾を生かす道なし。この道がある。素晴らしい言葉である。けれども、この道を歩いてその道によって天地が生かされて、確かに言わば成功させて頂くにしても、ただしこれは目出度い目出度いと言ったようなおかげにつながらないと言うことを私共は信じんがあるものと無いものの違いがそこに身らなければ、ならない。知らなければ、ならない。私共がそこんところに気づかせて頂いてもうこの道より歩くみちはないんだと。例えば、教祖が金光大神が教えてくださる道を私共のいわゆる生活のモットーとさせて頂いておかげを頂いて行くならばです。そこから、子孫繁盛の道が約束される。しかもそれは、天地につながる道、天地につながる道と言うのは、それでおかげを頂けるみちというのは、私共の全てのこと、いわゆる一切の事が生かして行けれる道なんです。言うならば、一切を喜びで受けて行けれる道なんです。この事は喜びで受けれんということはない。たたかれても痛いことは痛い。叩かれたおかげで強うなった。笑われたおかげで賢こうなった、というようにです。そこにお礼が言えれる信心、そういう風に生かして行けれる道を教祖様は教えておられる。そういうことが私共過去一切がです。生き生きとしてくるところにです。それが私は家をたてるならば、地形付きとなって行きよるのである。私共の過去にまだ、ああいうがとか、あれがとかああいうことがなかったらとか、といったようなものがある間はまだ、そこには家は神様は絶対建ててくださらん。いわば、地形付き半ばと悟られねばいかん。その地形付きのあとにしか、家が建てられない様にね。地形付きかなりに家を建てる人は内容に半ばに建てる馬鹿な人はない様に。それが終わってしか建てられないのですよ。そこんところを私共はしっかりけいこしなければいかん。それが楽しいものなんです。そこが私はありがたい、なるほど本当に神様がおかげをくださるまでには大変なこっちゃ、まだまだそれこそ血のにじむこだる。そこをこらえるだけでなくて血のにじむところを通れば、通るほどありがたいものが伴のうて来るところに楽しみがあるのです。御理解の一番最後の所、ここんところ皆さんが頂いて目出度、目出度の若松様よ。枝も栄える。葉も繁ると言うではないか。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃとこうおっしゃる。本当にそういう道を体験させてもらい、体得させてもらうての道とは一切を過去、一切を生かして行く道であり、これからどういう事があってもそれをいかさねばならない。そういう道はいよいよ天地にもつながる。天地が私一人の為に働いてござるという実感が湧いて来るようなおかげを自分の周囲周辺に感じることが出来るようになる。そこにお道の信心の楽しさがある。毎日テレビが私の為に動いてござるなあとそういう実感を頂いてごらん。如何に信心が楽しゅうなってくるか。しかもそれが確実に地形付きのことになってきよる。そこへ打ち立てられるところのおかげであって、初めて子孫繁盛のいわば、基礎であり、土台である。なるほど、これで行きゃあいよいよ自分の代より子の代、いよいよ繁盛していくなあ、孫の代にいよいよ繁盛するなと言うふうにです。いわば、おかげを頂くそういうおかげのそういう大変なおかげを頂かれる稽古を皆さんが頂いておられるのですから、本気で私はそういう道をこうじさせてもらわなければ、いわゆる神を信ずるということは、教えを信ずることなのです。そして、信じてそれを疑わず、そしてこうじて行くと言うところにお道の信心の実践があるわけですね。どうぞ。